先日、親しくしている友人から、「僕のことが、載っているから・・」と、教会の新聞が送られてきました。彼は、普通の立ち姿は、全くそう見えないのですが、歩くと、ああ、身体障害を持っているのだなと分かるのです。

彼は、高校2年生の時に、交通事故に遭いました。

最初に運ばれたで左足の「複雑骨折」と診断されました。しかし、ずっと、ひざ下の皮膚が紫色になったままでいたのです。そのことに気づいた医者は、すぐ彼を大きな病院に移しました。検査の結果、骨折したところの動脈が切れていたことがわかりました。何度も手術しましたが、足の組織の「壊死」を止めることが出来ませんでした。そして、医師から、命を救うためには、「左足を切断しなければならない」と宣告されました。目の前が、真っ暗になりました。

「左足ひざ下の切断」の手術が終わって、変わり果てた自分の体を見つめ、その現実を受け入れることが出来ませんでした。これからどうして生きていったらよいのか、不安と恐れの中で、生きることが虚しくなり、毎日毎日、病室の天井を見ていました。「このまま死んでしまいたい」と、生まれて初めて「死にたい、死んでしまいたい」と思いました。

しかし、死んだらどうなるのか? 誰でもいつか死を迎える時が来るのですが、自分の死に対する恐れ、恐怖があって、死ぬことは出来ませんでした。仲の良い同級生たちが、お見舞いに来てくれました。ベッドの周りを取り囲んで、楽しい話をしてくれました。うれしかったのです。しかし、彼らの学校生活の話を聞き、その活躍ぶりを聞いて、彼らが帰った後、急に寂しくなり、また、妬ましく思う自分の姿がありました。「なぜ、自分だけが、こんな目に遭わなければならないのか」と心に叫んでいました。

ある時、病院の廊下を松葉杖で歩いている時、小さな子が私をじっと見ていました。そして、隣にいるおばあさんに尋ねたのです。「あのお兄ちゃん、どうして足がないの」。すると、おばあさんは、小さな声で言ったのです『かわいそうにな、バチが当たったんだよ』

また、ある人から、冗談まじりで、「おまえは、運が悪かったよな。よほど、悪いことをしたんじゃないか・・・。と言われたりした。 それらのことばは、自分の胸深くにおちて、深くえぐりました。昔から、「因果応報」いう考え方があります。ああ、わたしの人生は罰当たりの人生、呪われた人生なのかと、愕然としました。

入院して数か月が過ぎた頃、担任の先生から、「このまま学校に来ない場合は、留年の可能性があるぞ」と告げられました。 担当の医師に話すと、病院からの通学は難しいと言われ、どうしていいのかわからなくなり、もう自分の人生は終わったと思って、とっさに、病院の屋上に行って飛び降りようとしたのです。しかし、最上階の屋上への扉は、しっかり鍵がかかっていました。茫然としていました。 それから、彼は、毎日、夜になると、一人窓から空をながめ、「誰でもいいから、助けてください!」と、「漠然とした何か」に向かって叫んだり、祈ったりしていたのです。

やがて、治療が進んで、「義足」を付けて歩けるようになり、退院することができたのです。しかし、心には喜びも希望もなく、相変わらず 生きることが空しく、死を恐れ、呪いを恐れていました。

ある日、彼は、「教会」に行ってみようと思い立ちました。 小さい時から電車の中からよく見ていた風景の中に、十字架のある教会を見たのを思い出し、「ああ、あの教会に行ってみよう」と思いました。それは、クリスチャンの先生が訪ねて下さり、三浦綾子さんの本をくださって、少しばかり読んでいたからでしょう。思い切って、初めて、一人で、教会に行ったのです。

教会で、「神様は、あなたを愛しておられる方、<愛の神>だ」と聞きました。それまで、神様と言えば、バチや呪いを与える恐ろしい方で、とても信じたくない存在だったのです。

救い主、イエス・キリストは、私を愛し、人となってクリスマスにこの世に来られ、私の罪のために十字架にかかって、死んで墓に葬られたが、甦って、今も生きておられる神であると聞いて、大変驚きました。「ここに死から甦ったかたがおられる。私が最も恐れていた死に勝利された神がおられる。」  そのお方は、「あなたがたは、この世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは、すでに世に勝っている。」(ヨハネ16・33)と私にかたってくださっている。 このキリストのみことばが、自分に語りかけられていると思いました。 「たとい、これからも私の身にどんなことが起こっても、私を愛し、十字架にかかって死んで、甦えられたお方が、今も生きて私と共におられる。ああ、私の人生は大丈夫だ。」

彼は、本当に勇気をいただいたのです。そして、彼の人生は変えられてしまいました。

キリストを信じる信仰によって、「死や呪いの恐れ」から解放され、生き生きとした尽きない命が与えられ、生きることの虚しさから、将来の希望を抱き、今を喜ぶことが出来る者と変えられたのです。

彼は、今、郷里の新潟県にある教会の牧師をしています。

ここに、暗闇の中に恐れ、どこにも希望を見出すことが出きなかった人が、輝く光、福音の光に照らされた時、「起きよ、光を放て」とのイザヤの預言のことばが、成就した一人の人の姿を見る思いがします。