ルカの福音書2章1節~7節

最近、私たちは「居場所」ということばをよく耳にします。

「自分の居場所がある、居場所を持っている」ことは、

私たちにとても大切なことです。

今日、「居場所」を失ってしまった人がたくさんいます。

例えば、自分の居場所としての「家」を失ったホームレスの人たちです。

コロナで会社の経営が悪化し、派遣社員の人が仕事を失います。

社員寮を出ていかねばならなくなって、ネットカフェの生活から、

ついに路上生活者になってしまったというのです。

なぜ、そのようなことになってしまうのでしょう。

実は、路上に放り出される人たちのほとんどが<家>を失ったというより、

<大切な人間関係>を失ってしまった人たちなのです。

困った時、誰にも頼る人がいない、孤独となり、

ついに孤立してしまったことが最大の理由です。

「居場所の無い人」とは、実は、

大切な親しい関係性を失った人のことなのですが、

それはホームレスの人だけでなく、家があっても、

仕事や学校に行っていても、家に帰っても、

自分の「居場所」がない大人や子供がいっぱいいます。

●では、「居場所」というのはどんなところでしょうか。

いろんな説明ができますが、

「自分が自分のままで、安心して、そこにおられる場所」のこと、

と言えるかもしれません。

それは、単に「物理的な場所」だけではなくて、

そこに、精神的な「心の居場所」、「魂の居場所

と言ってもいいのではないかと思います。

●今日の個所には、イエス・キリストの誕生のことが記されています。

キリストがお生まれになった時、宿屋には泊まる場所が無く、

生まれた赤子は「飼い葉おけの中に寝かせられた」のです。

キリストは家畜小屋でお生まれになりました。

なぜ?

「客間には彼らのいる<場所>がなかった」(7)と記され、

客間から締め出されたキリストに<場所>、

すなわち<居場所>がなかったからです。

キリストは、公生涯に立たれたある時、

「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。

だが、人の子には枕するところがない」

(マタイの福音書8章20節)と言われました。

神であられたキリストは、ご生涯中、

家畜小屋の誕生から十字架最期に至るまで、

「居場所」のない生活を送られました。

だからこそ、この方は本当に「居場所」の無い人を

思いやることの出来るお方です。

さらに、このキリストは、

「インマヌエル」(神が私たちと共におられる)と言われます。

聖書は、繰り返し「神が共におられる」ということが記されています。

自分の居場所がない、本当に心安らぐ「魂の居場所」のない

孤独の中にいる人(人間)を、キリストはよくご存じで、

その人々のために「救い主」としてこの世に来られたお方なのです。

人間は本来「孤独」を抱え、私たちはこの世にあって時に

「居場所がない」と思う経験をします。

また人生の最期には

「この世に居場所がなくなる」時を必ず迎えるのです。

しかし、イエス・キリストは、

だれにも、いつでも、永遠までも、

私の(魂の)居場所となってくだるのです。

(詩編 23篇4節)