ルカの福音書 20章27節~40節
「この個所は「人間の復活」を否定したサドカイ派の人々と、
主イエスの論争です。」
ユダヤ教の一宗派に「サドカイ派」があり、
彼らは徹底的に「現実主義的」な考え方をしました。
死んだ人間が復活することなどあり得ないと主張し、
そのための「反論」を持って
主イエスに論争を仕掛けてきました。
イスラエルの民は「家系」を非常に大切にし、
家系を絶やすことは
神の祝福を断ち切ることだと考え、
家系が絶えないよう律法を制定しました。
(申命記 25章5節~10節)に記載されたことばを根拠に、
彼らは復活反対論を展開しました。
(ルカの福音書 20章28節~33節)
1. 聖書も神の力も知らないから思い違いをしている
主イエスは、彼らの思い違いは
「聖書と神の力を知らない」 からだと言われました。
(マルコの福音書12章24節)
今の世も同じことです。
この世と来るべき神の国の次元は全く異なるのです。
ここで大切なことは、
天国は私たちが地上で理解している生活の延長ではない
ということです。
かの世では、今、
この地上生活の経験からは、全く想像できない
想像を遥かに超える新しい世界が
広がっているのです。
2. 甦(よみがえ)るときには、めとったり、とついだりすることはない。
彼らは天にいるみ使いのようなもの。
天国で、復活体の姿はもちろん、
個々人の認識は十分になされるでしょう。しかも、
「人間が有し得べき最も完全な姿であろう。」(藤井武)
「天にいるみ使いのようなもの」と言われます。
神との交わり、そして、
愛する者たちとの親しい交わりの許される状態です。
そこは、めとりとつぎするこの地上世界の次元とは
異なる世界なのです。
3. 復活と永遠のいのちの根拠
(出エジプト記 3章13節)
主は彼らが信じて尊んでいるモーセ五書の中から引用し、
死人の復活と永遠の命を論証されました。
神は、モーセに対して、ご自分を
「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であると言われました。
ここで語られたのは、
「わたしは、昔生きていて今は死んだアブラハムの神である」ということでなく、
「彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブは今、神の前に生きている。
神は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と言われました。
これは、サドカイ派の人たちにとって、全く驚くべき理解でした。
彼らは、今、神の前に生きているのです。
●「この世、地上の世界」と「来るべき世」、
「天国」とには相違があります。
天国はこの地上生活の延長ではありません。
全く違った次元に入ることになります。
天国はこの地上世界のことば、経験、知識では言い表せない、
とても表現できない世界の事柄だからです。
今、生命の源なる「神」、命であり復活であるキリストを信じ、
そのかかわりの中で生きるのです。
復活、永遠のいのちは、天国に行ってからのお話ではありません。
今、信じて命を得るのです。
「私は復活であり、命である。
私を信じる者は死んでも生きる。
生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。
あなたは、このことを信じるか。」
(ヨハネの福音書11章25節~36節)